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第255話 処置室の声

Penulis: 花柳響
last update Tanggal publikasi: 2026-10-11 06:00:41

 高瀬さんは短く頷いた。

「九条康隆氏の代理人が、転院を認めない意向を病院側に伝えています。医師の判断なしに移せません。こちらからも、安全確認と記録保全の文書を提出します」

「文書」

 高瀬さんは鞄を開きながら答えた。

「今、紙で出します。電話だけでは、あとで消えます」

 プリンターもない廊下で、どうやってと思った。

 私が周囲を見回すより先に、相良さんが駐車場へ戻った。

 数分後、相良さんが小型のモバイルプリンターを持って戻った。

 白い紙が一枚、機械からゆっくり出てくる。

 その薄さが、今は頼もしかった。けれど、紙が出るのを見届けた途端、ひどく情けなくもなった。二十四年ぶりに母かもしれない人と会うのに、私たちがまず頼るのは、この頼りない白い一枚なのだ。

 相談室の扉が開いたのは、それから二十分ほど後だった。

 高瀬さんと九条側代理人、そして白衣の医師が出てくる。

 私は立ち上がった。

 立ち上がった拍子に、椅子の脚が床を擦った。

「九条葵
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     その呼び方を、私はすぐには自分へ向けられたものだと思えなかった。 葵さんの声は、とても小さかった。 ワゴンの音は遠く、ここまで届く頃にはかすかな震えに変わっていた。 処置室の機械音に紛れてしまいそうなほど細い声だったのに、私の耳には妙にはっきり届いた。 看護師がすぐに葵さんの肩へ手を添える。「九条さん、分かりますか。ここは病院です。事故に遭われましたが、命に別状はありません」 葵さんは看護師を見ていない。 目は、私の方へ向けられたままだった。 その目に、私は映っているのだろうか。 それとも、二十四年前の病室が映っているのだろうか。 私は一歩も動けなかった。「朝霧さん」 高瀬さんが横から小さく呼ぶ。 医師もこちらを見た。 会話を続けるかどうかを私に委ねているわけではない。患者の反応を見て、必要ならすぐ止める。そのための目だった。 私は一度、息を整えた。「朝霧栞です」 それだけ言った。 母かもしれない人に、何と言えばいいのか分からなかった。 娘です、とは言えない。 あなたの子です、とも言えない。 娘です、と言えば早かった。けれど、その言葉は喉まで来て止まった。「朝霧栞です」 もう一度、同じ名前を言った。今はそれ以上が出なかった。 もしこの人が本当に母なら。 そう考えた瞬間、胸のどこかが先に縋ろうとする。 でも、縋ったら、今度はこの人を縛る。 私は自分の手を握り直した。 葵さんの眉が、寄る。「しお……り」 音を確かめるような呼び方だった。 胸の奥が痛む。 私の名前を、こんなふうに初めて呼ぶ人がいる。 それだけのことなのに、膝の力が抜けそうになった。「無理に話さなくて大丈夫です」 私が言うと、葵さんの目元が小さく揺れた。「無理……」 言葉を繰り返す。 その意味を確

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     高瀬さんは短く頷いた。「九条康隆氏の代理人が、転院を認めない意向を病院側に伝えています。医師の判断なしに移せません。こちらからも、安全確認と記録保全の文書を提出します」「文書」 高瀬さんは鞄を開きながら答えた。「今、紙で出します。電話だけでは、あとで消えます」 プリンターもない廊下で、どうやってと思った。 私が周囲を見回すより先に、相良さんが駐車場へ戻った。 数分後、相良さんが小型のモバイルプリンターを持って戻った。 白い紙が一枚、機械からゆっくり出てくる。 その薄さが、今は頼もしかった。けれど、紙が出るのを見届けた途端、ひどく情けなくもなった。二十四年ぶりに母かもしれない人と会うのに、私たちがまず頼るのは、この頼りない白い一枚なのだ。 相談室の扉が開いたのは、それから二十分ほど後だった。 高瀬さんと九条側代理人、そして白衣の医師が出てくる。 私は立ち上がった。 立ち上がった拍子に、椅子の脚が床を擦った。「九条葵さんは」 名前を出した瞬間、医師の表情がわずかに硬くなった。 それでも、彼は慎重に言った。「患者さんは意識を取り戻しつつあります。外傷は軽度です。ただ、強い混乱があります。面会は、医療上の判断で短時間のみ。ご本人が拒否された場合は即時中止です」 短時間。 即時中止。 その条件が、むしろありがたかった。 葵さんは、私が会いたいから会わせられる人ではない。「……その条件で、お願いします」 私は答えた。「無理はさせません」 言ってから、自分の声が固いことに気づいた。 医師は、私を一瞬だけ見た。 患者の親族かどうかまだ確定していない女を、どう扱うべきか迷っている顔だった。 九条側代理人が横から言う。「康隆様より、朝霧栞様の短時間面会について同意を得ています。患者ご本人の反応を最優先する条件で」 医師が頷く。 廊下を進む間、足音がやけに大きく聞こえた。 個

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